仮面置場

ヒに上げるには長いこととかいろいろ

吉川優子さんと「ただしさ」の話

初投稿です。クソ寒いですね。

響け!ユーフォニアム』の第1期を劇場版まで含めて視聴済みかつ小説にも触れているオタクと初見の私で同時視聴したのですが、その際に吉川優子さんに対する見解でプチ悶着あったので私の思考を書き残しておこうと思います。


とりあえず、私の価値観の紹介というか、自分語りというやつを挟みます。言葉の定義や認識に違いがあると同じ文でも受け取り方が変わってしまいますからね。


まず前提として、私は「ただしさ」という言葉、概念を100%肯定的な意味合いで使ってはいません。「ただしさ」というのはある一定の集団や組織、共同体にとって良い環境を作ることや、掲げた目標を達成することのために都合が良い枠組みでしかないからです。

「ただしさ」からあぶれた存在にもそれぞれの世界があるのだから、枠組みの外にいるからと言ってその救いや幸福が否定されても良いわけではない、というのが私の思いです。

そしてその上で、枠組みから外れた存在が救われないことも、不幸になることも正しいと考えています。勿論救えるものなら救うべきだとは考えていますが、時に全体の利益と個体の利益は矛盾するものですからね。

全体のために正しいことが、時に良くないことでもある場合があることを常に認識しているべきなんですよ。正しいからと言って悪くないとは限らないのです。


少しどころではなく脱線する話ですが、一応前述の価値観に関連することですし、様々な作品に対する他者の感想を見る中で憤りを覚えることが少なからずあるのでもののついでに書きたいと思います。


いろんな作品に、いろんな悪役、敵役というものが登場します。現実にも、枠組みの中に居られず罪を背負う存在がいます。そういった者に与えられる罰が客観的に判断できるように、法や規則は存在します。しかしそれはシステムです。必要だから存在する、後天的なシステムなんですよ。罪と罰のシステムは、悪いことをしたから不幸になるのは当たり前みたいな素朴な考えを肯定してはいないんですよ。自業自得だろうがなんだろうが、”その存在が不幸になった“って事実はそこにあるんだから、その存在が不幸になったことを認識することで生まれる負の感情をただしさになすりつけて精算すんなよって、そう思うんですよ。「あいつは悪いことをしたから、間違ってるから、不幸になるのは当たり前だって言って生まれた不幸から目を逸らすなよ。受け止めて咀嚼してそんで次にいけ。」それが私の思いというか、我儘なんです。別にこの思いが正しいと考えてはいませんし、真似はしない方がいいと思いますけどね。多分生きづらくなりますよ、私は平気ですけど。


はい、脱線終わりです。長かったですね。

ではまあまず、プチ悶着って何?ってところから話しますね。

同時視聴したオタクは、高坂麗奈と吉川優子のどちらも正しい、って言ったんですよ。

そして私は、吉川優子は正しくない、って言ったんです。

それでまあ、なんというか食い違ったというか、すれ違ったというか、ともかくそんな感じになったんです。

ここで勘違いしないでほしいのですが、私は1期視聴時点で推察される吉川優子さんの人格も、1期において彼女がとった行動も好ましく思っています。

その上で正しくないと言ったのは、あの時系列において「ただしさ」が明確に定義されていると考えたからです。

本来それぞれにそれぞれの主観があり、ただしさは(強度に差はあれど)それぞれの個人が持っています。すべてのただしさが曖昧で宙吊りでぶつかり合う状況では、結局なにもただしくないし、全部ただしいということになります。要するにそれぞれのただしさ絶対的な価値はあれど相対的な価値はなくなっているわけですよ。

そんな状態で集団、ましてや団体競技の部活が円滑に動くわけもないわけで、だからこそ「全国を目指す」「楽しくやる」の二者択一で全体の目的を決定する必要があったのだと、私はそう考えます。

全国という目標を掲げることはつまり「より優れた演奏をする」という目的を設定することであり、バラバラだったただしさを画一的なモノにする行いです。

その目的に対して正しい手段は、より優れた奏者がソロパートを演奏することであると私は考えます。故に、吉川優子は正しくないと私は言ったのです。

そして何より「より優れた演奏をする」というただしさのレイヤーにおいて、自らの行いが間違いであることを吉川優子は認識しているんですよ。認識した上で、自らが悪を被る覚悟も、香織先輩を傷つけてしまうという事実への理解も全部抱えた上で彼女は頭を下げたんですよ。それは純粋に願いのためだと、私は思います。彼女はただ、その願いがただしさと矛盾したから、枠組みの外側に出てしまっただけなんですよ。

そして高坂麗奈についてですが、別に彼女もただしさのレイヤーに従って動いていたわけではないと私は考えています。彼女には彼女の願い、特別になりたいという思いがあり、それに従って行動しただけです。その願いはただしさと矛盾していないから、彼女は枠組みの内側にいます。

願いと願いがぶつかったとき、どちらかの願いは折り砕かれることになります。それを高坂麗奈と吉川優子は互いに理解していました。その上で吉川優子は自らがただしさに歯向かう者であると自覚しした上で八百長の要求という手段に出ましたし、高坂麗奈は自らがただしさに沿っていると驕らず毅然とした態度をとり正面から中世古香織を打ち倒すことを選択しました。

願いに貴賎はなく、しかし実力差という現実は否応なく敗者を生み出し、願いを折り砕き踏み躙ります。そういう結果になったのは、そういうただしさを今年になって部が定義したからです。

中世古香織という人物は救われるべき、報われるべき存在だったのだろうということは、1期時点の情報量でも痛いほど伝わってきます。私個人としても報われてほしいという思いはありました。でも、その上で、定義されたただしさは彼女が報われないことを正しいことと示したのです。

 

正しくて、良くないこと。

 

私は吉川優子の願いが届かなかったことを、中世古香織が報われなかったことを正しいとした上で、その上で、そこにある不幸をただしさに押し付けず、抱えて、背負って、咀嚼しながら、2期を見ようと思います。

競い合う者の敗北を不幸として見ること自体が傍観者の傲慢だと、そういうふうにも思いますが。